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附録_02 リバティー・トリネーゼ

イタリア版アールヌーヴォー、リバティー・スタイルはどのようにしてイタリアに伝播したか。それはこの様式の呼称からも推し測ることができる。けっしてスティーレ・リベルティとイタリア語では呼ばない。「新しい芸術」と云う名の新様式は産業革命により台頭したブルジョアジーの様式としてまず英国で出現し、ベルギーに於いて建築様式として成立した。その後フランス、ドイツ、オーストリア、スペインへと伝播していったのだった。イタリアへは、1861年のリソルッジメントによる統一イタリアの首都であったトリノに於いてまず開花した。トリノでは1887年に続き1902年に国際万国博覧会が開催された。それらに合わせて、最新生活スタイルのデパートメント・ストアーである英国のリバティー商会が支店を開店し、日本趣味の商品を売り出したのであった。そしてこの新しい芸術の傾向を「リバティー様式」と英語で呼ぶようになったのである。このことからも解るように新しい芸術の様式はイタリア国外から入ってきた。それも他の国よりも一足遅れて。イタリアには確固としたギリシア・ローマの伝統を基盤とした建築様式があり、ルネサンス以降もそれを基盤として建築様式は変遷してきたのである。そしてヨーロッパ各国への伝播の源泉となった国である。この国でそれらとは隔絶した「新様式」は開花しうるのか?そして生きながらえる事が出来るのか?とはいえ、とりわけ1902年の万博はダロンコらによるパビリオン・デザインがオーストリアのヨゼフ・マリア・オルブリッヒらの影響を強く受けているとはいえ、建築様式としてこの「新しい芸術」様式の確立に貢献したと言える。
2004年、私は冬季オリンピック前で準備工事に沸いているトリノを、いまだ数多く現存するこの様式の建築を見るために訪れた。現存する建築の全てを見ることはできなかったが、その雰囲気を今に伝える写真撮影が出来た一部を紹介しよう。

まず、トリノの街をGoogle map で見て見よう。
この街の歴史は古い。ローマ時代の碁版の目の区画割りがまだ、この街の中核に残っている。サボイア家が支配するようになっても、このローマ時代の区画割り、直行する南北、東西の碁版の目の区画割りを踏襲し、古い城壁をその都度解体しながら拡大していったのであった。

TorinoMap
Googlemapより引用

さて、少ない滞在時間で効率よくリバティー・トリネーゼを見るため、20世紀初頭に整備され、当時の数多くの建築が残るフランチャ大通りを目指すことにする。地図を見ると、10年前私が訪れた時にはなかったメトロのマークが点々と表示されている。2006年の冬季オリンピックに合わせて開業したこのメトロはトリノの玄関口ポルタ・ヌオヴァ駅からヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世大通りを西へ、ポルタ・スーザ駅の前を通るボルザーノ大通りで北上し、さらにフランチャ大通りで西に進み郊外まで延びているようだ。私は、トリノのメイン・ストリートであるローマ通りをサン・カルロ広場からサンタ・テレーザ通りを西に進みコルソ・フランチャを目指すことにする。

ヴィア・ローマは、通りに沿ってポルティコと呼ばれる列柱廊のアーケードになっていて、カッフェやドルチェの店、本屋、貴金属店などが並び良好なショッピング・ストリートとなっている。。デ・キリコはこのトリノのポルティコから発想を得て彼の有名な作品を連作したと言われている。

Via Roma沿いのポルティコ

ViaRoma_01

Piazza San Carlo

PzSanCarlo_01

サン・カルロ広場からサンタ・テレーザ通りを西に行くと通りの名前がチェルナイア通りに変わりポルタ・スーザ駅に出る一本手前の交差点を北に左折してパッサラクア通りに入り一本目の交差点を過ぎると左手にリバテイー様式の建築が見えてくる。リバティー様式は別名スティーレ・フロレアーレ(花の様式)とも呼ばれるがその原型を作ったピエトロ・フェノーリオの作品だ。

Villa Rossi/Galateri
Via Passalaqua 14
Pietro Feniglio 1903

VillaRossi_01.jpg

VillaRossi_02.jpg

VillaRossi_03

ヴィア・パッサラクアを北上して憲法広場(Piazza Statuto)で左に行くとフランス大通り(Corso Francia)がまっすぐ西に向かって伸びている。私が訪れた10年前は、オリンピック時の開業をめざして地下鉄の工事中だったのか、大通り中央の並木部分は工事の仮囲いで覆われていて見通しが悪かったので、まず大通りの北の道路から攻めることにする。

MappaSudFrancia_01
Googlemapより引用

フランス大通りに西北から斜めに交差するヴィア・ルイージ・チブラリオの入り口に立って見る。たとえばこんなコンドミニオが建っている。バルコニーの手摺のアイアン・ワークを見ると渦巻き、流れる曲線で構成されている。明らかに19世紀末から20世紀初頭のアールヌーヴォのヴォキャブラリーを多用している。

たとえば、このコンドミニオ。

condominio_A a via Luigi Cibrario
Cibrario_01a

Cibrario_01b

もうひとつ。

condominio_B a via Luigi Cibrario
Cibrario_02c

Cibrario_02b

期待に胸を膨らませヴィア・チブラリオを進む。
ヴィア・サッカレッリとの交差点で右に眼をやるとヴィア・レ・キウーゼの交差点の角に、リバティー様式の建物が建っているのが見えた。これは、来る前に調べたデータにはなかった。したがって、建築家も竣工期日も不明だが、なんとなく装飾の感じがフェノーリオの感じがする。

casa all'angolo di via Le Chiuse e via Saccarelli

LeChiuse&Saccarelli_01

LeChiuse&Saccarelli_02

LeChiuse&Saccarelli_03

Casa a via Amedeo Peyron

AmPey_01

AmPey_02

AmPey_03

Condominio all'angolo di via Amedeo Peyron e via Michele Schina

Pey&Sch_01

Pey&Sch_02

Pey&Sch_03

Pey&Sch_04

Casa Rigat
Giuseppe Verati Bellini
Angolo di via Claudio Beaumont e via Luigi Cibrario

Rigat_01

Rigat_02

casaRigot_03

ヴィア・ルイージ・チブラリオを西へ。32番地にリバティー様式の小さなパラッツオがある。

Palazzina Giordanino
Via Cibrario 32
Paolo Saccarelli

Giordanino_02


Giordanino_03

Giordanino_04


Giordanino_05

このパラッツィーナの隣の1軒先にもあきらかにリバティー・スタイルの語彙を多用したコンドミニオがある。

Condominio all'angolo delle via Luigi Cibrario e via Carlo Tenivelli

Cibrario&Tenivelli_01



ヴィア・レ・キウーゼをさらに西へ。ヴィア・カルロ・ロッシとの交差点の手前に不思議な姿のカーザが2棟並んでいる。

Casa A
Via Le Chiuse

Chiuse_01


Chiuse_02


Chiuse_03


Chiuse_04

Casa B
angolo di via Le Chiuse e via Carlo Rossi

Chiuse&Rossi_01

Chiuse&Rossi_02

だいぶ西のほうに来てしまったので、南下してフランス大通りまで出て東へ引き返しリバティー・トリネーゼの重要な建築家ピエトロ・フエノーリオの自邸を見に行こう。

Casa Fenoglio (La Fleur)
Pietro Fegnolio 1902
via Principe d'Acaja 11 x corso Francia

CF_01

CF_02

CF_03

CF_04

この住宅でフェノーリオは彼のスタイルを確立した。イタリアのアールヌーヴォーであるリバティー様式はまた花の様式とも呼ばれている。それは、フェノーリオの展開する花模様の装飾に多くの追従者が影響されたからであった。

この住宅の裏隣に花模様の装飾がほどこされた住宅がある。

ACF_01

ACF_02

さらに、周辺のリバティー建築を2,3見て見よう。

Casa Tosca
via Beaumont 3
Giuvan Battista Benazzo
1902,1903

Tosca_01

Tosca_02

Tosca_03

Tosca_05


palazzo Masino
via Piffetti 5
Giovanni Gribodo 1908

Masino_01


Masino_02

casa Masino の右となりにも、面白い住宅がある。

AcantoMasino

さて、今度はフランス大通りを南にわたって、いくつかリバティー建築をみてみよう。

Google Earth で見ると、こんな感じ・

SudParteCoesoFrancia
Google Earth より引用

メトロのPrincipe d'Acaja駅から西へ3ブロックめの角に奇妙な大邸宅がある。
エントランスやバルコニーのステーを龍の彫刻で装飾してある。

palazzo della Vittoria
corso Francia 23
Gottardo Gussoni, 1918~1920

Vittoria_01

Vittoria_02

Vittoria_03

Vittoria_04

Vittoria_05

つぎは、裏に回って ヴァッザーリ・エアンディ通りのヴァラッヴァッレ邸を見て見よう。
声楽家の家だったのだろうか、エントランスの上には、コーラス隊のレリーフが。。。

pallazzina Baravalle
via Vassalli Eandi 18 * via Principe d'Acaja
Annibale Rigotti 1906

Baravalle_01

Baravvalle_02

Baravvalle_04

さらに、街区の奥へ入っていく、ドゥケッサ・ジョランダ通りに出てマルティーニ公園(giardino Martini)の向こうに大きなコンドミニオが2棟見える。

palazzo alla via Ducchessa Jolando 17
via Ducchessa Jolando 17
Gottardo Gussoni e Genesio Vivarelli 1914

Jolanda_01

Jolanda_02

Jolanda17_03

隣の19/21 番地との間に通路があり、奥に異様なパラペット飾りに着いた建物がたっている。
この2つのマンションの共用のガレージだろうか? 2階建なので、1階は車、2階は運転手の部屋になっているとか。。。?

隣も大きな豪邸だ。

palazzo alla via Ducchessa Jolanda 19/21
via ducchessa Jolanda 19/21 * via Collegno 45
Antonio Vandone da Cortemiglia 1912



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附録_01 ラヴェンナ イタリアの小京都

Basilica di San Vitale

SV_01

ラヴェンナと言えば、モザイク。そして、6世紀に献堂されて以来、何度かの修復工事がされているとはおもうが、今もその鮮やかな色彩を保持する堂内を覆うモザイクでその名の高いバジリカ・ディ・サン・ヴィターレ。
2004年の6月、家人同伴のイタリア旅行の際、モザイクを見るためにイタリアの小京都 ラヴェンナを訪れた。
南イタリアではないけれども、こじんまりした静かな街もモザイク同様素晴らしかったので、このブログに掲載することにした。

城壁で囲まれた、この街は南北、東西 1.5KMほどの小さな街である。
しかし、歴史は古い。 西ローマ皇帝ホノリウスは当時ミラノを首都としていたが、幾度となく襲ってくる異民族に嫌気がさし、防衛上有利なラヴェンナに首都を移した。それ以来751年まで西ローマ帝国の首都であった街である。皇帝と元老院の弱体化が原因なのか、北方からのゲルマンなどの大移動が原因なのか、西ローマ帝国最後の少年皇帝ロムルス・アウグストゥスはこの街で、ゲルマン傭兵隊長オドアケルにより退位させられた。そして、東ゴート テオドリコによりオドアケルも殺害された。その後、テオドリコの東ゴート王国の首都となった。そしてテオドリコの死後、東ローマ帝国のイタリア半島での拠点ラヴェンナ総督領となった街である。その長い歴史の痕跡が街のいたるところに見られる。

1.5KM四方の東の辺の中央付近にFF.SSのラヴェンナ駅がある。
街の中心、ポポロ広場に向かって東西に走るヴィアーレ・ルイージ・カルロ・ファリーニ、ヴィア・アルマンド・ディアズが走る。

Viale Luigi Carlo Farini
快適な並木道の突き当たりに見えるのがFF.SS ラヴェンナ駅。
VLCF_01

Via Armando Diaz
突き当たりに見えるビルのところから道幅が狭まる。そこからが、ヴィア・アルマンド・ディアズである。この通りは、左右がおしゃれな店舗やカッフェが入り、快適なショッピング・ストリートとなっている。
これを進むとラヴェンナの中心、ポポロ広場となる。

VAD_01

Piazza del Popolo

PDP_01

Palazetto Veneziano
PV_01

ヴィア・ムラトーリの路地を抜けると小さな広場 ピアッツァ・20・セッテムブレ。

Via Muratori

VM_01

Piazza 20 Settembre

P20S_01

ホテルはこの広場に接続するヴィア・マッテオッティとヴィア・4・ノヴァンブレに面するホテル・チェントラーレ・バイロンに予約した。内装は新しいスタイルだったが、設備は快適だった。街の中央にあることもあって、見たいところはサンタポリナーレ・イン・クラッセを除いて、全て歩いて行けた。

Hotel Centrale Byron
Via Ⅳ Novembre, 14 Ravenna
www.hotelbyron.com

ホテルに荷物をおいて、早速サン・ヴィターレを見に行く。
歩いて数分のところにあるアドリアーノ門の近くにある。
敷地内にはガッラ・プラチーディアの廟もある。合わせて旧修道院を利用した国立博物館も併設されている。

まずは、外観。
見てわかるように平面は集中ホール形式である。
2段の多角形の平面で、一番高い部分が信者のスペース、2段目に設けられたアプスの一角に主祭壇が設けられここが、鮮やかな色ガラスのモザイクで埋めつくされている。堂内は宗教音楽が小さな音量で流され、敬虔な雰囲気の中で祈りの空間を堪能した。

Basilica di San Vitale

SV_02

SV_03

そして、堂内に入る。

SV_04

中央の一番高いクーポラ部分は、モザイクではなくフレスコ画であるようだ。
SV_05

そして、正面アプスの主祭壇は、鮮やかな色ガラスのモザイクに覆われている。

SV_06

SV_07

SV_08

主祭壇左側壁には、皇帝ユスティニアーノⅠ世。
SV_09

主祭壇右側面には、従者をしたがえた王妃テオドラのモザイク。
彼女は、娼婦で大衆劇場の女優であった身分から、王妃にまで昇りつめた女性だ。
SV_10

サン・ヴィターレの裏に小さなレンガ造りの廟がある。
ガッラ・プラチーディア廟である。
ガッラは皇帝テオドシウスⅠ世の娘。
410年東ゴート アラリック のローマ攻略の際捕虜となった。
アラリックの死後、東ゴートの王となったアラリックの弟アタウルフと414年結婚した。
しかし、アタウルフは暗殺されてしまう。彼は、いまわの際、彼女をローマに還すよう言い残して死んでしまう。
ローマに戻った、彼女は兄の皇帝ホノリウスの指示で将軍コンスタンティウス(後の皇帝コンスタンティウス)と結婚。
そして、息子(後の皇帝ヴァレンティアヌスⅢ世)をもうける。西と東のバランスをとりながら、時には異民族の捕虜となり、そしてその首領と結婚し、またローマにもどってからも宮廷の中で生き延び息子を皇帝にまでした女性。
この建物が彼女の廟なのかの確証はない。彼女はローマで没し、ヴァチカーノに埋葬されている、というのが本当のところらしい。しかし6世紀ごろから、この建物は彼女の廟であると言われている。

Mausoleo di Galla Placidia
GP_01

GP_02

GP_03

GP_04

GP_05

GP_06

GP_07

旧付属修道院が国立博物館になっていて、そこの回廊が静かで落ち着ける。観光客もあまりいないところなので、ゆっくり休憩するのにいいかもしれない。

MN_01

MN_02


さて次は、490年頃テオドリコが王宮に隣接して造ったバシリカ形式の聖堂を見に行こう。
バシリカ・ディ・サンタポリナーレ・ヌオヴォ。
この聖堂は、テオドリコが建設したこともあって、後にラヴェンナが東ローマの統治を受けるようになると、東ゴートが国教としていたアリウス派がニケア宗教会議により異端とされ、堂内のモザイクもアリウス派の痕跡を消そうと、改修された、とのことだ。

Basilica di Sant'Apollinare Nuovo

カンパニーレは11c、正面ポルティコは16c(第1次大戦で破壊、後再建)に増築された。
SAN_01

東ローマの影響をもろに受けている中央集中ホール形式のサン・ヴィターレとは対照的に、西ローマ由来の3廊式バシリカ形式の聖堂。
東ゴートと西ローマとの関係がよくわかる。
この聖堂の見どころは、正面主祭壇の設けられているアプス部分にはない。この部分は創建当時の姿は完全にうしなわれている。見どころは、身廊部左右のギャラリー上部クリアストリー下部の壁部分のモザイクだ。
向かって左には、3賢者(マギ)に導かれて、聖母子に向かう、22人の聖女の列、右側には聖マルティーノに導かれ、天使に囲まれたキリストに向かう26人の殉教者の列がモザイクで描かれている。
SAN_02

まず左から見て見よう。

San_03

天使と聖母子の部分だけが、なにか違っている。 テオドリコはこの部分に何を描かせたのか? テオドリコ自身だったかもしれない。
SAN_04

次は左。
26人の殉教者がスタートする建物はテオドリコの宮殿ではないか、と言われている。
SAN_05

聖マルティーノが先導者だ。テオドリコの死後、ラヴェンナは東ローマの統治下にはいった。東ローマ皇帝ユスティニアーノはこの聖堂からテオドリコの痕跡を消そうとして、聖マルティーノを記念する聖堂と定めた。したがってこの先導者も後に加えられた可能性がある。
SAN_06

テオドリコ時代の痕跡。
東ゴートの王宮と思われる部分にも、東ローマが施した修正の痕跡。
列柱左から、1本目、3本目、5本目、それに右から2本目に手首の部分だけが修正されずに残されている。
たぶん、カーテンが掛っている柱間には、それぞれテオドリコの従者が描かれていたのではないだろうか。
そして、ポルティコの中央の何か解らない形のオブジェのような金箔ガラスモザイク部分には三角帽子をかぶったテオドリコが王座に座している姿が。。。。。。。。?

SAN_14

丁度工事中で足場が掛っていて写真を撮ることができなかったが、左側の聖女の列の出発点にはラヴェンナの外港 クラッセが描かれている。
そして、聖母子と天使の部分にテオドリコと従者が描かれてていたとすると、まず聖女の列が3賢者に導かれクラッセの港から、テオドリコの王宮に向かう。そして右側に移り、26殉教聖人がテオドリコの王宮から今度はキリストに向かう、というストーリーが考えられるがどうだろうか?

SAN_15

付属修道院の回廊。ここも静かで心の和む場所だ。

SAN_12

SAN_13

この聖堂の2~3軒先に、テオドリコの宮殿だと言われている建物がある。
しかし、その確証はない。
Cosiddetto Palazzo di Teodorico
PLTDRC_01

さて、次は司教座聖堂(ドゥオモ)付属のネオニアーノ洗礼堂にむかう。
ここにも、素晴らしいモザイクが残されている。

Battistero Neoniano preso il Duomo

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ヨルダン川でクリストに洗礼をほどこすヨハネ。洗礼の聖水の上には祝福する聖霊を表すハトが。
しかし、クリストのそばで緑のタオルを持って洗礼で濡れたクリストの体を拭こうと待ち構えているのは誰か。。。?
Neo_11

今日はこのぐらいにして、ホテルの隣 11月4日通り16番地によさそうなリストランテがあるのでそこで早めのチェーナとする。
まだ、明るい。店も開いていない。でもドアを開けて、誰かいないか呼びかけて見ると、純朴そうな中年の女性がでてきた。まだ早いけど食事出来るか、聞くと”Come no?"と答えが返ってきた。それで、道路に張り出したストリート・シートに座る。6月の初旬で季節もよかった。カメリエーレのおばさんも感じがよく、たぶん家族経営でやっているのだろう、なにかご当地の料理をというと、プリモはリゾット・ヴェルデがいいだろう、ということになった。アンティパスト、プリモと進みドルチはティラ・ミ・ス’をおいしくいただきエスプレッソで締めくくった。ヴィノ・ディ・カーザも地元エミリィア・ロマーニャ産とのことでエコノミコでかつブオノであった。
参考までにこのリストランテは

Bella Venezia
Via Ⅳ Novembre 16, Ravenna

いよいよ明日は、サンタポリナーレ・イン・クラッセを見に行く。
これは、ラヴェンナの郊外にあり、バスで行かねばならない。

翌日、コラツィオーネを済ませ近くの自由広場(Piazza Caduti per Liberta)からバスに乗る。
近くの座席に我々と同世代と思われる夫婦がすわっている。どこから来たのか英語で聞いてみると、答えはイタリア語でかえってきた。フランスからで、ブルターニュからだ、といっていた。
そうこうしていると、バスは郊外に出て、一面の畑の中を快適な舗装道路がまっすぐ走っている。そして彼方にサンタポリナーレ・イン・クラッセのカンパニーレが見えてきた。

Basilica di Sant'Apollinare in Classe

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バス停は聖堂の北側面を走っている道路にある。
バス停の前にあるバールでビリエットを買ってバスを待つ。
やっと、バスが来て乗り込むと先ほどのフランス人夫婦も乗り込んできた。
彼らはラベンナ駅のバス停で降りた。
”Grazie, ci vediamo!!!"と言って、降りて行った。

ラヴェンナは静かで、観光ずれもしていなく、純朴な人たちばかりで本当に良い街だ。
まだ、見逃しているものもある、次回来るときはゆっくりこの街を堪能するためにすくなくとも2泊はするべきである、と思った。

第26章 ローマへ

いよいよ本日は、最後の目的地ローマへ向かう。
サレルノから、ローマ・テルミニまで、フレッチャロッサで約2時間半で行く。

まずは、サレルノのコンコルディア広場前で早いランチ。
ピッツァ、フライド・ポテト&ビール。

LS_01

近くのカッフェでカフェ・ラテ&ババ。
LS_02

3時過ぎにテルミニに到着。
Termini_01

ローマでも行きたいところがあるので、2泊する。
まずは、ホテル。
2日後の朝の便で帰国する。
フイミチーノまでの電車を考え、テルミニ歩5分のホテルにした。
1泊149euroとちょっと高めであったが、ローマでテルミニの近くということもあり納得して予約した。
WIFIは快適につながった。パソコンを使うデスクもある。水回りにはバスタブもついていた。

Hotel Milani
Via Magenta, 12-00185 ROMA
www.hotelmilani.it
TEL:06.44.57.051

milani_01

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さっそく、荷をほどき、PCをとりだして、メールチェックをすると、東京の友人からメールが来ていた。
ローマに行ったら、カルボナーラを。。。。
テルミニ近くのラ・ガッリーナ・ビアンカ、それにトラス・テヴェレのダ・チェンチーアのカルボナーラは絶品とのこと。
2週間の南イタリアの旅を思い出しながら、ゆっくりバスタブに漬かって一休みしてから、まずはラ・ガッリーナ・ビアンカのカルボナーラを試してみることにする。

La Gallina Bianca
via Antonio Rosmini, 9-00184 ROMA
TEL: 064743777

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GB_02

カルボナーラ発祥の地ローマで食べるカルボナーラ。
シッカリ豚の匂いがする頬肉の塩漬け、グアンチャーレ。
シボウもシャリシャリの歯ごたえ。それにパルミジャーノの香りが融合しなんとも言えないワイルドなカルボナーラ。
日本で食べる生クリームと豚バラ肉のパンチェッタのカルボナーラとはずいぶんと違う。

GB_03

次の日、朝から雨模様。
ローマに来たら、ファシズム期の建築を見るためEURに行きたかった。
でも、この雨では碌な写真は撮れない。
EURはあきらめて、近場を廻ることにする。

最初は、バルベリーニ国立絵画館。
ここに、グイド・レーニの「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」がある。

彼女は16世紀末、ローマで起こった悲劇のヒロインだ。
貴族フランチェスコ・チェンチは横暴な性格で、家族にも暴力をふるった。
ベアトリーチェは長女で兄と弟がいた。
彼女は実父に性的暴力を受けるまでになった。
深刻な状況に家族全員で相談し、フランチェスコを毒殺しようとしたが失敗し、屋敷としていた要塞から突き落として殺害した。この犯行は露見し、裁判の末、弟を除く全員の処刑とチェンチ家の財産の没収が決まった。事情を知ったローマ市民はヴァチカーノの判決の取り消しを求めたが、教皇クレメンス8世はこれを聞き入れず、処刑は断行された。グイド・レーニはサンタンジェロ城に幽閉されていた処刑前の彼女を尋ね、デッザンした、と伝えられている。彼女が頭に巻いている白いターバンは、斬首に際し髪の毛で斧の刃が滑るのを防止するためである。毎年、処刑の前夜、ベアトリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持ってサンタンジェロ橋に現れる、という伝説が語り継がれている。

バルベリーニ国立絵画館
旧バルベリーニ宮殿。
オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」でオードリーの演ずるアン女王の宿泊する館の設定で映画に登場する。
BBRN_01

そして、これがグイド・レーニの「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」。
BBRN_02

さて、次はベルニーニだ。ローマには、ベルニーニの彫刻がいたるところにあるが、ボルゲーゼにある作品「アポロとダフネ」「プロセルピーナの強奪」「ダヴィド」を除けば、彼の2大傑作だと、ひそかに自分で決めている作品がある。

まず、そのうちの1つ「エスタシ・ディ・サンタ・テレーザ」を見に行く。それは、バルベリーニ絵画館から歩いて行ける距離にある。
次の目標はヴィア・バルベリーニを昇って行ってヴィア・セッテンブレとの交差点の角にあるサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂だ。

SMV_01

SMV_03

これが、「聖テレーザの法悦」だ。
天使の持つ矢に今まさに胸を貫かれようとして恍惚に浸るテレーザの表情を詳細に見ることのできるアングルをえらびたいところだが、下から仰ぎ見る位置になってしまい、残念だ。

SMV_05

次の目標は、トラス・テヴェレにある。
聖フランチェスコ・ア・リーパ聖堂のカペッラ・アルティエーリにある「ベアータ・ルドヴィーカ・アルベルトーニ」だ。
その前に、昨晩、東京の友人のメールで勧められたトラステヴェレにある2軒めのトラットリーア「ダ・チェンチーア」を探してランチすることにする。

ここで、ちょっとトラブル。オーダーするとき、なぜか「カルボナーラ」という言葉が出て来ない。「ビアンコ・エ・コン・フォルマッジョ」とか言うと、カメリエーレのお兄さん「解った,解った。」といって店の中に入って行った。しばらくして、持ってきたのは「ボンゴレ・ビアンコ」だった。「ちがうじゃない、ビアンコでも、これじゃない、ちがうよ。」「だって御客さん、ビアンコっていったじゃない。」「いや、僕はコン・フォルマッジョっていったでしょ。」。。。と押し問答をしていたら、怒ったようにボンゴレの皿を持って店の中に入って行ってしまった。どうなるんだろう、とおもってしばらくすると、今度はおじさんのカメリエーレが「カルボナーラ」を持ってきた。
太めのリガトーニのカルボナーラだった。
絶妙なアルデンテのリガトーニの溝に卵とパルジャーノが絡み、グアンチャーレもしっかりした味で、それはうまかった。
帰り際、こちらから店のキャッシャーのところまで出向き、さっきのお兄さんに私のオーダーがあいまいだったことを詫びた。彼も、居眠りしながら注文を聞いていてすみませんでした、と言ってくれた。こんなところが、イタリア人っていいな~とおもってしまうところだ。

Antia Trattoria Da "Cencia" in Trastevere
Specialita' marinare e romane

Via della Lungaretta, 67-00153 Roma
TEL: 06.5818434

DaCencia_01

DaCencia_02

さて、聖フランチェスコ・ア・リーパ聖堂には、この食堂の前が小さな広場になっていて、ヴィア・サン・フランチェスコ・ア・リーパにつながっているので、それを進む。大通りヴィアーレ・トラス・テヴェレを横断するする手前右手に古い大きな病院の建物があるが、その角の1階部分に、なにか由緒のありそうな店構えの食料品屋がある。

Antica Caciara TrasTevere
Specialita' Alimentari Tradizionali
http://www.anticacaciara.it

Via San Francesco a Ripa, 140 a/b-00153 Roma
TEL: 0039 06 5812815

Google streetview より引用
Caciara_01


パルミジャーノ・レッジャーノ、グラナ・パダーノ、ペコリーノ・ロマーノなど安い、大きな塊から切り分けて量り売りしてくれる。
太い腸詰めモルタデッラやサラーメなども量り売り、そしてお土産用に小分けにして真空パックにしてくれる。
知り合いにあげたり、自分で食べたりしたが、非常にうまかった。お勧めの店です。

土産を買いこんでしまって、背中のデイバッグはちょっと重くなったが、降ったりやんだりの小雨のなか、サン・フランチェスコ・ア・リーパ聖堂に向かう。道はまっすぐなのでもう彼方に見えている。

Google streetview より引用
SFaRipa_01

小雨の中、参拝者は誰もいない。
薄暗い、堂内でカペッラ・アルティエーリを見つけ、ベアータに対面した。

BLA_02

BLA_01

薄暗い堂内で全く一人で、官能的なベアータ・ルドヴィーカを十分に堪能した。

表に出ると、また雨が強くなってきた。
もう、ホテルに帰って、明日の早朝の帰国の準備でもしよう。

帰国の朝、雨はしとしとと降っていた。
薄暗い石畳の道をテルミニに向かう。

ボーディング・タイム 9:05 のスイス・エアー LX1727 便は時間通り離陸した。
そして、チューリッヒでのトランジットのあと、翌日の 12:25 無事成田に到着した。

チューリッヒ空港の待合スペース。
1か月半前に、同じくここを通って、ヴェネツィア・マルコポーロに向かった。
この歳で生まれて初めての一人旅。
それも、ヴェネツィアでの1か月の語学学校での生活、そのあと、運行状況のよくわからない私鉄を乗りついでの南イタリアの旅、不安と期待で一杯だったのを思い出した。しかし、やらなければ絶対に得られない数々の貴重な体験、親切にしてくれた南イタリアの人たち、スッド・エスト鉄道の車掌さん、レッチェのB&Bの女将、ノーチのホテルのマダム、オストゥーニのバスの運転手、オストゥーニやマルティーナ・フランカのタクシー・ドライバーのお兄さん、それにナポリのダ・ミケーレで同席した面白3人組のナポレターニ等々。
もう一度,来たい。
今度はシチリアヘ。

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第25章 ポジターノへ

今朝は早く目が覚めてしまった。
夜ホテルにもどってワインを飲みながら、昼撮った写真をPC経由でポータブルHDに入れていると、単調な作業で眠くなってしまう。HDがクラッシュすることも考え、さらにBDに焼いておきたいところだが、そこまでいかずに昨晩は睡魔が襲ってきて寝てしまった。まだ夜明け前だ。せっかくなので、スピアッジャ・グランデから日の出を撮ることにする。
今日もアマルフィ・コーストはいい天気だ。

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スピアッジャ・グランデの船着き場でビリエットを買って乗船。
出航するとすぐ右手に絶景が展開する。
アマルフィからソレント半島の先端までは、サレルノ~アマルフィよりも、さらに険しい地形になっている。

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ここにもトッレ・サラチェーノが。。。
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ポジターノの街が見えてきた。アマルフィよりもさらに険しい岩山が背後に迫っている。

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港に桟橋はなく、海に直角に張り出した河岸が船着き場になっている。
カプリ経由でナポリ行き、とアマルフィ経由でサレルノ行きがここから出ている。

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ドゥオモ・ディ・サンタ・マリア・アッスンタ目指して歩く。
ホテルは、ドゥオモの裏手にある。スピアッジャ・グランデからまた狭い階段状の路地を昇らねばならない。
正面に見えるマヨルカ・タイル仕上げのクーポラがドゥオモだ。
ドゥオモの裏に2層目と3層目のピンクの外壁がみえる。この建物が今夜の宿。
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ドゥオモのほうに上がっては行かず、スピアッジャ・グランデ沿いに建ち並ぶリストランテの前を歩く。
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リストランテ・ブカ・ディ・バッコのある広場に来たら、階段を上がり向かいの白い建物の横の狭い路地に入る。
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路地は土産物屋が軒を連ねている。
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階段は途中で左に折れている。
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トンネルだ。この上はドゥオモということ?

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さらに左に折れて、昇りきると小さな広場になっている。
ドゥオモの北側面に出たことになる。
そして、180度方向転換して、マヨルカ・タイルの店の前を通ってさらに狭い路地の突き当たりが今夜の宿だ。

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突き当たりの赤茶の壁が今宵の宿 Villa La Tartana.
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Villa La Tartana Positano
Via Vicolo Vito Savino 6/8, 84017 Positano(SA)
Tel: +39 089 812193
Fax: +39 089 812193
URL: http://www.villalatartana.it
Email: info@villalatartana.it

matorimoniale uso singolo, balcone con vista mare, 130 euro per notte (ottobre 2012)
レセプション前のサロン。突き当たり海側がダイニング。
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荷をほどいたら、さっそくポジターノ探索。
まずは、ドゥオモ・ディ・サンタ・マリ-ア・アッスンタ。
ホテルから出て、マヨルカ・タイルの店の前をとおり突き当たりを左に折れるとスピアッジャ・グランデを望むサンタ・マリア・アッスンタ前のテラスに出る。
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Duomo di Santa Maria Assunta

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昔、昔、海賊がこの街を襲いました。あらん限りの略奪の末、最後にこの聖堂のマリア像を運び出し、スピアッジャ・グランデまで来た時、突然あたりが暗くなり、強風が吹き付け、雷も鳴り響くなど、天変地異がおこりました。そして天から"Posa,Posa!!!"(「其れを、置いていけ、そこに置いていけ!!」!)という声が聞こえ、海賊はびっくりしてこのイコンを砂浜に置き去りにして逃げ去ると、とたんに天変地異はおさまり、めでたし、めでたし。それで、いまでもこのマリア像はこの聖堂にあり、年に1度、街の人たちにより、海まで担ぎ出される祭が行われている、ということです。そして、この街はポシターノとよばれるようになりましたとさ。
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さらに、テラスの階段を下りて左に行けば、マリナ・グランデとスピアッジャ・グランデに出る。
階段の途中にある食料品屋で、生ハム、チーズ、そしてカンパーニャの誇るビール、「ナストロ・アズッロ」を買うことができる。階段をしたまで降りると正面は観光案内所になっている。そしてまわりには、ポジターノ・ファッションのコットンのシャツなどの店がある。

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食料品屋。イタリアのプレ・モル=ナストロ・アッズーロも置いている。
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モーダ・ディ・ポジターノのリネンやコットンのシャツを売っている店
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マリーナ・グランデからまっすぐ来るとこのピアッツァに来るが、ここで行き止まりだ。
つまり、この街には港に大型バスなどでアクセス出来るメイン・ロードというものがない。
これから、行ってみようと思っているヴィア・デイ・ムリーニを徒歩で昇ってピアッツァ・デイ・ムリーニまで行かないとアマルフィ・コーストを結ぶ車道までいけない。車での港へのアクセスはできないのである。
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ヴィア・デイ・ムリーニ。 水車小屋の道。今はブーゲンビレアの咲き乱れるおしゃれなショッピング・ストリートななっているが、昔は港まで川が流れていて、水車小屋が点在する風景が展開していたのだろうか。アマルフィ同様、川は暗渠にしてしまったのだろう。

ホテルから出てマヨルカタイル屋の前を通ってこの角にぶつかるので、それをドゥオモとは逆に右へ進む。
ブーゲンビレアの日よけがある水車小屋通りはここから始まる。
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ピアッツァ・デイ・ムリーニが見えてきた。
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ピアッツァ・デイ・ムリーニには、パーキングがあって、スピアッジャ・グランデヘは車を おいて歩いて行く。

広場に面して小さな聖堂があるが、名称がわからない。
でも、古そうな感じだ。

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ポジターノのショッピング・ストリートはこの広場までだ。
これから上は住居か宿泊施設かそれに付随したレストランなどだ。
アマルフィでは、川を暗渠にしてメイン・ロードがつくられていたが、ポジターノにはメイン・ロードと呼ぶには、ちょっとはばかられる路地状のヴィア・デイ・ムリーニしかない。川はどこを流れているのだろう? 確かに、この広場から車道のヴィア・クリストフォロ・コロンボを進むと、すぐ谷に沿って昇り坂となる。谷底には川が流れていた。車道は大型バスが頻繁に通っているので歩き辛い。谷底に降りて向こうの斜面まで行く遊歩道があるので、そこを歩いて行くと、川は建物の下に飲み込まれていた。
水車小屋広場から向かいの西斜面を見ると大分上の方に聖堂のものと思われるクーポラとカンパニーレが見える。あそこまで昇って行ってみよう。

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西の斜面をつづれ織り状にぬって走るソレント半島周遊道路ヴィアーレ・アマルフィナータを大分昇ってきた。やっと目当ての聖堂 キエーザ・ヌオヴァ の下までやってきた。カンパニーレとクーポラが見えている。ここから、路地に入り狭い階段を昇る。

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この聖堂、小型ではあるが正円の平面にクーポラの屋根がのっている。ローマのパンテオンの超小型版だ。Chiesa Nuova (新聖堂)という名であるが、歴史はかなり古そうだ。かたく閉ざされたポルターレからのぞいてみると内部はきれいに改修されていた。外壁はこれから工事らしく足場が掛っていた。

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聖堂前は小さな広場になっている。
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大分集中して歩いた。もうお昼はとうに過ぎている。おなかもすいてきた。朝、出がけに目をつけておいたスピアッッジャ・グランデが見渡せる リストランテ・コーヴォ・デイ・サラチェーニ でランチにする。

サラセン海賊の巣窟(Covo dei saraceni)という名前がいい。
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ビッラ・アッラ・スピーナを飲みたかったが、ビンしかない、というので、ビンだったらやはりイタリアのプレミアム・モルツ「ナストロ・アズッロ」にする。
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そして、プリモは「手長エビのリゾット」。
オコメの火のとおり加減もアルデンテだ。エビ、ムール貝、イカの出汁が効いていて、地元の冷たい白ワインとも相性が良く、非常においしかった。イタリア有数のリゾート地の海水浴場の前のリストランテだ。大変おいしかったけれど、値段もそれなり、でした。
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ナポリ名物ババ風のドルチェもカッフェとともに楽しんだ。
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連日、気合いを入れて歩いているので、少々お疲れ気味だ。
今日は早めにホテルに戻って、いよいよ最後の目的地 ローマ での計画でもたてよう。
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第24章 サレルノからアマルフィへ

ナポリ・チェントラーレからICでサレルノへ。
ナポリ・チェントラーレまでホテルで呼んでもらったタクシーで10euro。
ナポリに到着した時乗ったタクシーは2倍の20euroだった。用心して乗る前に値段交渉をしたのがいけなかった。
ホテルの名を告げると、20euroと云った。プーリアでは1時間以上ものって20euroだった。この時、疑わねばいけなかった。
スーツケースを持っていたこともあって、了承して乗ってしまった。やけに愛想が良かったのは、2倍も料金をとれるとおもったからだ。まあ、でも憎めない感じのナポリターノではあったが。。。

さて、ナポリ駅について、ICの指定の車両を探して駅の作業員と思われる男に尋ねると、親切にコンパートメントまでスーツケースを持って案内してくれた。そして、荷物棚にスーツケースを乗せると、10euroだ、という。えぇ~、そんなの頼んでないし、料金とるんだったら、最初に言ってくれ、と言ったら何も言わずに行ってしまった。ちょっとかわいそうなことをしてしまったかもしれない。

ホームに止まっているIC.

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昨日ナポリ・チェントラーレで買ったビリエットは 2nd, compartimento, posto prenotato で 8.00 euro.
40分弱でサレルノだ。
乗客はほとんどいない。コンパートメントを独り占めして、これからの予定をあれこれ考えていると、あっというまにサレルノに着いた。
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サレルノの駅はこんな感じ。ホームを結ぶ地下通路はコンベア式の動く歩道だった。
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駅広にあった教会。
新しそうだけど、部分的には古そうな感じもする。
古い教会を改修したのかもしれない。

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ここからコンコルディア広場の船着き場に向かって、メインロードをまっすぐ歩けば良い。

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コンコルディア広場のハーバー。
アマルフィへの快速船はこの桟橋の突端からでる。
乗船券 8.00 euro + スーツケース 1.50 euro.

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アマルフィに向かって快速船はひた走る。
そして、アマルフィー・コーストの圧巻の景観が展開する。
岬の先端には、塩野七生著「ローマ亡き後の地中海世界」でも紹介されている「トーッレ・サラチェーノ」がいくつも確認できる。いかにサラセンの襲撃・略奪が頻繁に行われていたかが分かる。

サレルノ出航。
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ここにも、トッレ・サラチェーノ。
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サラセンの襲撃を見張るトッレ・サラチェーノ。
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1時間ちょっとでアマルフィの港が見えてきた。

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Spiaggia Grande di Amalfi

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さて、まずはホテルヘ。スピアッジャ・グランデの前は大型バスの発着所になっている。
広場からホテルはすぐそこに見えている。
でも、アプローチがちょっとやっかい。
アマルフィの玄関口 ポルタ・デッラ・マリーナからドゥオモ広場に入る。

Porta della Marina
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Hotel Croce di Amalfi は真ん中のピンクの建物。2階がヴィスタ・マーレのバルコニー付き、3階は窓付きの屋根裏部屋のようだ。
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ドゥオモの大階段から見たドゥオモ広場。正面の3階建ての建物赤いテントの金細工とカメオの店の右の狭いトンネルを抜けるとドジ広場だ。

piazza del Duomo
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ドージ広場にはいったら左手にパニーノテカ「Da Barracca」があるので、この店の右に回り込むと狭い階段の路地がある。
この狭い路地にも名前がついている、Via San Niccolo dei Greci 。

piazza dei Dogi
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パニーノテカの向こうに階段が見える。
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この階段を、重いスーツケースを持って上がる。
階段の横に水飲み場があるので、冷たい水で顔を洗って、気合いを入れた。
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やっとホテルのエントランスにたどりついた。
インターホンで予約している旨告げると、ドアが開いた。
しかし,レセプションはさらにもう1層上だという。

Hotel Croce di Amalfi
Via San Niccolo dei Greci 13, 84011 Amalfi Sa.
Tel: 089873136
Fax: 0898304155
www.hotelcrocediamalfi.it
info@hotelcrocediamalfi.it

ダブルのシングル・ユース、 ヴィスタ・マーレのバルコニー、110euro per notte, ottobre, 2012
部屋数が少ないので、早めの予約が必要。
PortaleCroce_11

部屋に入って、バルコニーから眺めるティレニア海は素晴らしかった。
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床はご当地生産のマヨルカ・タイル。
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水廻りもマヨルカ・タイル。
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3階のダイニング。
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ダイニングからテラスに出られ、朝ごはんは、朝日に輝くティレニア海を眺めながらとることができる。
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ホテルに荷物をおいて、さあアマルフィ探索だ。
まずは、なんといってもドゥオモだ。
大階段を上がって左となりが修道院になっていてここのキオストロがすばらしい。「天国の回廊」という。

Duomo di Sant'Andrea
創建は9世紀。ジェノヴァやヴェネツィアに先駆けて、オリエント交易に乗り出し繁栄を極めた海洋都市であるアマルフィは早くからアラブ世界に注目し、その影響をうけた。ファザードは19世紀の改修により造られたが、尖塔アーチの多重組み合わせを使ったトレーサリーなどきわめてアラビア的だ。

DuomoAm_01

カンパニーレは11世紀の創建。これも尖塔アーチの組み合わせやマヨルカ・タイル仕上げの頭部などアラブの影響が強い。
DuomoAm_02

左奥に修道院のエントランスがあるので、そこから「天国の回廊」に入る。
砂漠のオアシス、と云った雰囲気の中庭の周囲を巡る回廊は交差ボールトの天井とポインテッド・アーチの多重組み合わせによるパターンが織りなす効果がこの世とは思えぬ空間を作り出している。回廊の壁には幾度となく繰り返された改修工事の際に発掘されたモザイク装飾やフレスコ画が展示されている。おそらくは11世紀の創建当初のものと思われるアルコーブに施されたフレスコ画が興味深い。

Chiostro del Paradiso
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折り重なる尖塔アーチのパターンが、砂漠のオアシスに点在するヤシの林を連想させる。
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このキオストロと現在のドゥオモとの間に、旧ドゥオモがある。現在は発掘物や収蔵品の展示空間になっている。
平面図を見るとこんな具合、新ドゥオモの平面図はないが、旧ドゥオモを解体せず新ドゥオモを横に増築したことがわかる。

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さて、いよいよ新ドゥオモだ。まず地下礼拝堂から見て見よう。
さすが、かっての繁栄が推し量られる地下礼拝堂。壁、交差ボールトの天井はフレスコ画で埋めつくされている。
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地下礼拝堂は、柱の色大理石、フレスコ画、それに照明の明るさと色が巧みに調和されていて、比較的新しいと思われるのに時間の経過を感じさせる荘厳な感じの空間であった。

地下礼拝堂から地上階のバジリカに上がり、高い天井を見上げると、クリアストーリーから降り注ぐ南イタリアの光がまぶしかった。

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天使ラファエル、そしてトビア、犬、魚。
これはヴェネツィアでも見た、「アポクリファ 旧約聖書外典~トビト記」の物語のプレゼーペだ。
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再び、エントランス前のコーリドイオに出る。右に見えるのがエントランスの青銅の扉。
11世紀にコンスタンチノープルで鋳造された。
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今度は、アマルフィのメイン・ロードを歩いて紙の博物館まで行ってみよう。
この道路もともとは川で、暗渠にして道路をつくったらしい。アマルフィの街は東と西の斜面にそって住居が建てられ、この道路が一番低い位置にある。このメイン・ロードから斜面の上に向かって細い毛細血管のように階段状の路地が枝分かれしている。

このメイン・ロード、途中で名前が3回も変わる。
Via Lorenzo d'Amalfi → Via Pietro Capuano → Via Marino del Giudice → Via Cartiere と変わって、なるほど紙博物館の接する道路は、「製紙業者の道」と云う名の道路になっている。

piazza Duomo → Via Lorenzo d'Amalfi 

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メイン・ロードと並行して走るトンネル状の通路。
敵襲来で街の中まで侵入を許してしまった時、敵に見られず逃げたり、あるいは先回りして待ち伏せしたりするための通路とのことだ。
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この辺でおなかがすいてきたので、ランチにする。
結構客が入っていたので、ここにきめた。
海の幸のフィットチーネ。
ムール貝やエビが入っていて、けっこううまかった。
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この道路で唯一の信号。
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住居もまばらになってきた。大きな岩と一体となった住居もある。
元製紙工場、今お土産店のような感じの建物など点在する。
もう、via Cartiere(製紙業者の道) なのだろう。
そして、街のはずれに 紙の博物館があった。
メイン・ロードを大分上まで登ってきた。このへんで暗渠になっていた山水を集めた川が顔をだす。
やはり、製紙工場には上流のきれいな水が必要だったのだろう。

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Museo della Carta
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アラブ伝来の製紙工程。獣毛を水にさらす。そして、水のなかからすきとる。
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すきとった獣毛を布の上に反転し、圧搾機で水分を絞り取る。
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原料の獣毛を細かくする水力による砧。
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紙の博物館の売店で、土産を物色しているとオーナーと思われる男が話しかけてきた。
WASHI を知ってるか?と聞く。
WASHI? Che cosa e'? そんな言葉イタリア語にあっただろうか。。。?
しょうがないなぁ~、それじゃぁ、見せてやるよ、といって男が持ってきたのは、「和紙」だった。なんだ、日本語だったのか、もちろんしってるよ。でも、どうしてこんなもの、ここにあるの。。?いや、Washiは、すばらしい。こんなにペラペラでもしっかり印刷できるんだよ。。。。。。なぁ~るほど。納得して博物館を出た。

さて、帰りはメイン・ロードから斜面を登る毛細血管のような階段路地を行ってみよう。
地図を見ても、どうせ途中でわからなくなる。太陽の方向を見ながら、場当たり的に進むことにする。

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狭い路地から視界が開けた。ドゥオモの裏の高台まで来たようだ。
カンパニーレの隣にドゥオモのファッサードの三角形が見える。
本当にファッサードのみで看板建築のようだ。
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今日も朝から,歩きとおしだった。
途中、食料品屋で、ナストロ・アズーロを何本か仕入れて、ホテルのバルコニーでティレニア海を眺めながら休憩しよう。

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明日は、また船に乗ってポジターノへ行く。
アマルフィまでの景観を、さらに上回る絶景が展開するはずだ。
プロフィール

AMOITALIA

Author:AMOITALIA
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地中海沿岸の国々の文化、芸術に興味があり、とくにイタリア南部の村や街の住居の集合形態に惹かれています。

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